勉強を教えるだけじゃない

よく、「勉強教えてるだけで女子高生とお喋りできるんだろ?うらやましいわ~」と、友人に言われるが、その度に広辞苑の角で頭を殴ってやりたくなる。


学校の先生のメインは、勉強を教えることにあるのは間違いない。特に、中学生、高校生は、学習指導が上手い先生ほど保護者からは有能扱いされる。しかし、勉強を教えるだけでいいのであれば、塾講師のほうがよほど向いているし、お金も貰える。学校の先生の仕事がそれだけでいいのなら、そんなに楽なことはない。


主に教師としての指導は三種類。学習指導、進路指導、生活指導だ。


まず学習指導。さっきも言ったが、これは世間が先生を評価するときの指標になる。親御さんや生徒の中には「先生はどこの大学を卒業してますか?」と、学歴を気にしてくる人間もいる。当然っちゃ当然なのだが、他人に偉そうに教える立場なのだから、それに見合った学力がなければ馬鹿にされる。学力が高くなれば高くなるほど、その傾向は強くなる。


いつやるか? 今でしょ!

いつやるか? 今でしょ!


今や知らない人はいない、かの有名な林修東京大学出身だ。東進ハイスクールの塾講師を務める彼の授業は、受けている者を魅了する。そこには、学歴というアクセサリーも少なからず影響していると俺は思う。もし彼が、三流大学卒あるいは高卒だったなら、熱狂的な信者はこれほどまでに現れなかったに違いない。


だが、学習指導というのは、生徒のやる気と俺たちのやる気がマッチして初めて意味の成すものになる。まずは生徒がやる気にならなければ始まらない。



突然だが「偏差値」という言葉を知っているだろうか?簡単に言えば平均値を50として、その数値よりも高ければ能力が高く、低ければ能力が低い、といったものさしである。



理論的には、偏差値10という人間も存在する。例えばテストを例にすると、平均点が70点のテストで30点を取って、標準偏差*1の値が10だった場合、偏差値は10になる。



具体的な偏差値の話はさておき、50が平均だということを頭に入れておいてほしい。ということは、純粋に50以下の人間は平均以下で、その数は全体の約半分だと分かる。え?違う?おい、細かいことを指摘するな。文系だから見逃してくれ。



学校現場では、この偏差値が低い子どもたちに手を焼くことになる。勉強が出来ない、というよりは勉強への意欲がないのだ。生徒のやる気がなければ、いくら学習指導が優れている教師も、宝の持ち腐れだ。


さっきの、学力を気にしてくる人種は比較的偏差値が高い。彼らも彼らでやっかいだが、勉強が出来ない子は、もれなく生活面でもだらしないことが多い。


ここで、進路指導や生活指導の話になってくる。進学校の高校生の場合、進路先はほぼ大学である。だから、勉強は自分たちでやろうとする。


しかし、偏差値の低い学校に通う生徒は、そもそも大学に行く意志はない。高卒で働こうとするのだが、「働くから勉強しませーん」とか「こんなん勉強して何の意味があるの?」とか言い訳をして、ますます勉強が嫌いになり、学習意欲がなくなってしまう。


そして、学習面で教師の言うことを聞かなくなると、生活面でも聞かなくなる。制服は着崩し、ピアス、染髪、化粧は当たり前、成れの果ては喫煙、無免許運転と非行に走ることも少なくない。


頭が悪いやつはろくなことをしない、という世間の偏見は、この悪循環に陥った人間「だけ」を見てきた結果ではないだろうか。確かにこういう子どもはよくいる。だけど、みんながみんなそうではない。俺たち教師の役目は、そうならないように回り込んで先手を打つことである。たとえ子どもに嫌われようと、ルールという無機質なもので彼らを縛り付ける必要がある。


ところが最近、勘違いした教師モドキが、生徒のことを考えて、忖度した指導を行ってるのをよく見る。「これくらいは許してやろう、そうすればきっと向こうも譲歩して言うことを聞いてくれる」と。残念ながら、その優しさに漬け込んでくる悪魔のような人間が存在することを、彼らは信じようとしない。


子どもが善である、という幻想は捨てなければならない。どれだけこちらが尽くしても、息を吐くように裏切る、人の心を持ち合わせない生徒がいるという事実を受け止めなければ、自分達が苦しんでしまう。実際に俺はそんな悪魔のような人間を何人も見てきた。


何も生み出さない偽善者よりも、何かを止めさせる鬼でいたい。善意には善意で返せば良いが、悪意には善意で返してはいけないと思う。悪意を善意で返してしまう人間は、勉強を教えるだけが教師の仕事だと無意識に思ってしまっているのではないだろうか。

*1:点数のばらつき具合